” stare into a room “
今年の桜は少し遅い。三月の終わり、沖縄からやってきた家族と計画していた花見はあまりに寒いのでやめにした。かわりに琵琶湖を見に行ったのだがそこでもやっぱり風は冷たく早々に引き上げた。
四月、ようやく満開になった桜とそれを見上げるひとたちを横目に三重にクルマを走らせる。三重の桜は静かにポツンと、誰かに見せるためではなく、でもしっかりと咲き誇っていた。とても贅沢だと思った。潮干狩りにはまだ早く、海の家のおばあさんは「今日は潮も引き切らんし、風も冷たいねえ」と言った。
七年前、生まれて三、四日しかたっていない息子がはじめて病室から出たのもこんなふうにまぶしい日だった。腕の中であたたかい日差しに目をしかめる息子を見て、この太陽の光すらもこの子にとっては凶器になるのではないかと怖かった。三千グラムちょっと、まだはっきりと目も開いていない、何でもないふやふやとやわらかいかたまり。でもまぶしいものにはまぶしそうにする、ちいさな意思を持ったひと。あのとき彼には世界はどう見えていたのだろうか。
向かいのおじいちゃんが玄関口で配達の人と話している「これはなんなの」「これお弁当なので召し上がってくださいね」配達の人の口調はやさしいがどこかぶっきらぼうだ。「この容器はどうするの」「それは夕食のですから、別の業者がひき取りに来ますからね」同じ会話をお昼前と夕方、毎日二回必ずしている。「ああそうですか」と弁当を受け取るが、翌日にはまた同じ質問をする。サービスを受ける人、する人、それらを依頼した人。どこかで誰かがボタンを掛け違ってしまったのだろうか。ちぐはぐなまま毎日いろんなひとが出たり入ったりする。介護の世界に正解はない。おじいちゃんは今日もよくわからないお弁当をよくわからないまま受け取っている。
出窓で写真の展示がはじまった。あさこさんが写真を展示したいという。あさこさんとはちょうど一年前に知り合ったのだった。よくわからないまま訪れた東北の地で、よくわからないまま話をして、よくわからないまま京都でまた会った。なぜここで展示をしたいのだろうか。聞けばいいのだろうが、よくわからないままの方がいいと思った。それは老いなのだと思う。よくわからないことをわかろうとするのではなく、よくわからないままにしてみる。ひとがやるというのだからそれでいいのかもしれない。やっと六年がたったばかりのこの店は、もう老いはじめている。それがちょっとうれしい。
出窓に並んだ写真は、おじいさんの部屋を撮ったものだという。部屋の主人が亡くなった後の、呆然とした景色。撮るひとも呆然としていたのだろう。がらんとした空間をぷつんと切り取ったような写真。いるといないの間には、どっちでもない時間があったほうがいい。二人の間に呆然とする時間があってよかったなと思う。もうこの世にいないおじいさんは、遠く京都の本屋の出窓に自分の部屋の写真が並ぶことをどう思うのだろうか。

Asako Ogawa Window Exhibition
” stare into a room “
二○二五年四月十二日(土) – 六月七日(土)
開風社 待賢ブックセンターの出窓にて
Asako Ogawa
https://www.instagram.com/asakoogawao/