感情の使いかた日記
おもてのマガジンラックに置いてあったコロコロコミックがなくなっている。朝はたしかにそこにあった。テキトーな本屋だが在庫管理はちゃんとしている。といっても何十冊も仕入れたうちの一冊ではなく、二冊しか仕入れていないのですぐにわかるというだけのことなのだが。
二日前に、御池通の道端で二冊をトラックの運転手さんから受け取りました。時刻は九時でした。翌日の三時ごろ、いつものJくんが学校の帰りに見つけてすぐに買っていきました。七百円でした。では、残りは何冊でしょう。
答えははすぐにわかる。すぐに分かったとして、それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからない。気づかない方がしあわせなときもある。
家財整理をしているおっちゃんから電話がかかってくる。ずいぶん前に本の買い取りの依頼があり、そこで空になった本棚をなんとかして欲しいとたのんでいたのだった。おっちゃんは「今な、ドラッグストアでゴミ袋とサンドイッチ買ったんや。サンドイッチだけ食べて寝るんや。今日は疲れた」と言う。それが用件なのだろうか。「長岡の向こうにな、工具を一式忘れてきたんや。明日八条で箪笥をばらさなあかんのに」話はまだ続くようだ。「kに運転させたらあかん。アクセルを踏みすぎなんや。ガソリンがあっという間になくなる。トラックはようけガソリン食うんやで。それであいつと喧嘩したんや。情けないわ」おっちゃんはもう八十なので運転はしないのだという。ふんふんと話を聞いていたらいつの間にか明日の朝、僕がトラックを運転して長岡の向こうまで行くことになっていた。そのまま八条の家財整理の現場にも連れて行かれるらしい。「人をやとたらな、メシもくわさんならんし。たいへんや。わしのとこには一円も残らへん」おっちゃんから三度目の「情けないわ」が出たところで電話は切れる。
小学生のとき、近所の文房具屋にノートを買いに行った。封筒に入れてもらったノートを抱えて歩く帰り道、ふと封筒の中に二冊ノートが入っていることに気づく。おばちゃんが間違えて二冊入れてしまったのだろうか。お金はおつりのないように持っていったので一冊分しか払っていない。もしかして自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。鼓動が速くなる。そっと取り出すと、間違えないようにと持っていった使い切ったノートが出てきた。おばちゃんが丁寧に同じ袋に入れてくれたのだった。たった数秒間。だが三十年たっても覚えているほどには大きな出来事。
コロコロコミックがなくなってしばらくはどんな顔をしていたらいいのかよくわからなかった。店の前にならんでいるものを黙って持っていったらどうなるだろうと想像することは楽しい。見つかったら走って逃げようか、家に持って帰ったら家族にも怪しまれるだろう、どこかに隠したらどうだ。自分だけの場所。誰にも言えない秘密。そんなことをぐるぐる考えているだけの帰り道が自分にもあった。それを実行に移すかどうかは別として。
いつ見ても人気のない本屋の軒先。いつも開けっ放しの戸が最近は閉まっている。目の前のマガジンラックにはぞんざいに置かれた最新刊のコロコロコミック。「ここならできるかもしれない」と思わせてしまったのは誰だろう。コロコロコミックが欲しくなるような年齢の人に。
「情けないわ」と言う言葉はこういう時に使うのかもしれない。でも、誰に向かって?
コロコロコミックを持っていってしまった人は、三十年後にそのことを思い出すだろうか。コロコロコミックを持っていかれた人は、三十年後にもそのことを覚えていられるだろうか。それはいい思い出なのだろうか、悪い思い出なのだろうか。できればいい経験であってほしい。思い出は多いほうがいい。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。