暑い記憶日記

朝から「暑い」しか言っていない。このへんでは「こんにちは」と「暑いねえ」がひとまとまりのあいさつになったようだ。向かいに住むフクモトさんちのおじいちゃんが回覧板を持ってゆっくり道を渡ってくる。「あっついねえ」「どうですか調子は」「うんうん」聞こえているのか聞こえていないのかわからないが何か話したそうなのでちょっと待ってみる。

「子どもたちにね、話をする時間はないかなあ」と思い出したように言う。話。なんの話だろう。「昔はね、橋の強度計算なんかをしてたんですよ。」大学の先生をしていたフクモトさんは瀬戸大橋の設計に関わっていたらしい。その話はもう十回くらい聞いた。「子どもたちは橋の話は興味ないかなあ。」ちょっと寂しそうにフクモトさんはつぶやく。子どもたちに話をしたい、というのは今日はじめて聞いた。「昔のここら辺はどんなやったんですか」「そうねえ、中学生の時にね、疎開をしましてね」「疎開ですか」「アメリカの飛行機が爆弾を落としにくるって言うんで、和歌山に疎開したんですよ。当時は松原のね、四条通の向こうの中学校に通っていたんやけど」「父親が和歌山の出でね。田舎にいけって言うんで行ったんですねえ。ややこしい時代やったなあ。」ややこしい時代、のところだけが妙に耳に残る。今はややこしい時代ではなくなったんですか、と聞こうかと思ったがやめておいた。話は続く。「リヤカーを引いていきましたねえ。荷物を積んで、何日もかけてね。大阪の一番南の、山があるでしょう? その山を越えたところ、和歌山が田舎なんですねえ。そんなところまで歩いていきましたねえ。うん。」強い日差しの下でフクモトさんは話し続けている。立っている身体の角度がどうしてもまっすぐとは思えない。フクモトさんはいつも靴下をつけた足に無理やり草履をはいていた。ただでさえ転びそうな足取りなのに、靴下に鼻緒が食い込んだ草履はあぶなっかしくて見ていられない。今日の足元は別のつっかけをはいている。新しく買ったのだろうか。それでもやっぱり足元は不安定だ。ちょっと日陰に入りましょうかと声をかけ、うちの前にあるベンチを陰に持っていく。「あっ」とフクモトさんが声をあげる。一匹のゴキブリが目の前の塀をのんびりはっていた。フクモトさんは当たり前のように素手でゴキブリをはらう。ちょっとびっくりするような素早い動き。「あああ、あなたの家のほうに行ったよー。」道路を渡っていくゴキブリを木陰から二人でしばらく眺める。「堀川の商店街なんかはどんなだったんですか」「ああ、賑わってましたねえ。小学生の頃にね、進駐軍なんかもきてお店が並んでね。」終戦は小学生で迎えたのか、中学生で疎開したのか、このへん記憶の時系列が曖昧なのかもしれない。今年で九十二、三歳になるというひとにとって、数年の違いはもう違いのうちにはいらないのかもしれない。「本屋なんかもあったんですか」「うーん。戦争が終わってすぐの頃は、みんな食べもののことで精一杯やったねえ。お惣菜やら野菜やらを買ってきてね」「堀川通の両側、向かい合わせに魚屋さんが何軒かありましたよ。今でもありますねえ」「本や文房具なんかは、そうねえ。どうしてたんかなあ。」

「あ!ここにいたんですか!」バタバタと家の中からヘルパーさんがでてきた。「みんなで探してたんですよ!」「はいはい」フクモトさんは家の中へ戻っていった。日差しの中に取り残される。話はそこで終わってしまった。

ながいながい記憶の中の、数年間のややこしい時代。本や文房具よりも食べ物で精一杯だった時代。暑すぎる日差しの下で聞いた、遠い記憶。記憶の中の夏も、こんなふうに暑かったんだろうか。今度はそれを聞いてみようと思っている。

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。