まっすぐ日記
朝八時、小学校の前のまっすぐな道をたくさんの小学生たちがうねうねと歩いてくる。背中にP T Aとかかれた黄色いベストを着て道端に立つ。挨拶したり、恥ずかしそうに目を逸らされたり、肩にパンチをしたりする。数ヶ月前、気がついたらP T Aの役員になっていた。店でぼーっとしていたら「副会長」という役が向こうからやってきたのだ。なにをしたらいいかわからないが、知らない子どもたちの入学式に出たり、眠そうにうねうね歩く小学生たちを眺めたりしている。
もともと近所にあった八百屋のような飲み屋のような店が、さらに近所に引っ越してくるという。直線でいうと大きな声を出せばもしかしたら聞こえるくらいの距離。でもあいだに家がいっぱい建っているのでまっすぐには行けない。くるっとまわってふたすじ向こう。古い古民家を直して店にするというので、何度か工事を見に行った。梁は傾いていて、土壁も歪んでいるように見える。歪んでいるが崩れることはない。妙な安心感があるゆらゆらとしなやかな家。そこにまっすぐな木材をはめていく大工。眺めているだけではアレなので高いところを拭いたり本棚に本を並べてみたりする。二ヶ月くらいたって、うす暗い空き家が風の通る店になっていた。
長く続けさせてもらっていた新聞のコーナーが、次回で終わると連絡があった。三〇〇字程度のちいさな連載。三〇〇字で本を紹介するのはむずかしい。余計なことをダラダラ書いていてはすぐに文字数が足りなくなる。いつも字数をオーバーして編集のひとにあちこち切ってもらっていた。残るのは本当に必要なことだけをぽんとおいたような文章。最後の本は『ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ』にした。ほとんどの絵本は見て、触って、ページをめくったらだいたいのことはわかる。なにを書いたらいいかよくわからないので原稿にかかる前に息子に読んでみた。「えー」とか「なんで」とか言いながら聞いている。なにを考えているのかは聞かなかった。おとなの解釈が物語を曲げてしまうこともある。結局いろいろ書いて原稿を送ってから、わざわざ言葉であれこれ紹介するほどつまらないことはない、などと考えている。やっぱり三〇〇字くらいがちょうどいいのかもしれない。
五年生になったじゅんが学校の帰りに店に入ってきた。家に誰もいないという。「ここでジュースとかコーヒーとか出してさ、飲んでもらったら人がいっぱいくるようになるんちゃう」という。アメリカの本屋ってどんなんやったと聞いてみる。「ベンチがあって、好きに本が読めた」「でもみんなちゃんと本買ってたな」
じゅんが帰ってから、外のベンチに独り腰かけてみる。少し足りないくらいがいいのかもしれないな、と思った。お店に行くということはお金を使うということだ。高速道路のパーキングエリアに寄るとなぜかソフトクリームを食べたくなるのはそういうことだろう。本屋にいって、座って読むだけだとちょっと足りない。でもコーヒーが飲めちゃったらもう満足。肩たたきとかしてくれる本屋ができたら誰も本を買わなくなると思う。かといって本とレジだけでは足りなさすぎる。駅の売店が街中にあっても流行らない。みんなそんなに急いでいない。ぽんとベンチがあるアメリカの本屋は本を買いたいひとにちょうどいいのではないか。日本の本屋はどうだろう。本以外のものを売りすぎていないか。本じゃないところで満足させようとしていないか。儲かっていればなんでもいいのかもしれないが。
京都の片隅の本屋は、人がいっぱいくるようになるとうれしいかと聞かれるとちょっと微妙な気持ちではある。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。