見えるものと見えないもの日記
さっきまで機嫌よく明日の準備をしていた息子が急に泣き出した。「ふゆやすみがふつかしかない」という。指さした先の時間割のプリントを見てみる。今週は火曜日まで学校がある。いつもなら水曜と木曜の時間割が書かれている二日分のところが「冬休み」となっていて、金曜日の欄に学校がはじまる一月八日の予定が書かれている。省略するということを知らない小学一年生の目には、たのしみにしていた冬休みが水木しかなく、金曜日からまた授業があるように見えたのだろう。気持ちは分からんでもないがそんなことで泣かないで欲しい。おとなに笑われて息子は今度は怒りはじめた。何日もあるはずの冬休みを「〜」とかいう記号で隠しても平気になったのは何歳からだっただろうか。六歳でもわかる子はわかると思うのだが。
「本屋、始めませんか」とかいう広告が目につく。S N Sにも何度も出てくるし、駅には大きなポスターが貼られているらしい。かっこいい写真と映像。そして違和感。
「本屋をやりたい」という声はある。とてもたくさん聞く。でもそのことと「本屋、はじめませんか」という広告は全く別のものだと思う。本屋は誘われてはじめるものではない。なぜなら儲からないからだ。本屋は儲からないが「本屋、はじめませんか」とささやいてくる人はちょっと儲かる仕組みになっている、らしい。儲からないとわかっていることに人を誘っておいて、自分はちょっと儲けようとするのはなんというかずるくないか。本当は全然ずるくないのかもしれない。純粋な気持ちで応援したいと思っているひとが組織の中のどこかにはいるのかもしれない。そういうひとのおかげでいまも本屋をやっています。でもちょっとずるいと思ってしまうのはなんなんだ。
本が書かれるところから、手に取られるところまでのあいだにある無数の仕事たち。ひとつひとつはめちゃくちゃおもしろいのに集団になると急に灰色になる。一緒にやっている仲間だと信じたい。
おとなたちはミートソースのパスタをつつきながら焼酎を飲んでいる。子どもたちはテレビゲームに夢中だ。唐突に「AIに負けないためにはどうしたらいいか」という話がはじまった。曰く、二つ以上の技能を身につけることで幅が広がってA Iに負けることがない、と。なるほど。人間とA I、今はどちらが優秀なのだろう。来年はどちらが。先のことは何も分からない。そもそもA Iと戦いたくないのだがそれはどうしたらいいのだろうか。だいぶ前に別の人に言われた言葉を思い出す。「この店はごちゃごちゃしすぎててA Iには再現不能やな」。もうちょっと見やすいように片付けろよ、と言う説教なのだが、角度を変えれば褒め言葉のようにも聞こえる。そのように聞こえるのでそれでいいのだと思う。ごちゃごちゃした場所、ということが定着してきたおかげで、なにもしていないのに「今日はちょっとスッキリしてるね」などと言われる。なにも変わっていないのに進化したように見えるA Iとかあるんだろうか。A Iというだけで毎日勝手に進化してそうな雰囲気は持っているが。
古本市が終わり、本でパンパンになったクルマの隣でぼんやり佇む。次会うのは岐阜ですかね、富山も日程が決まりました、と先の予定をボソボソと話す。来年もまた同じようなスケジュールであちこちに本を持って行くことになりそうだ。小さな場所をつづけていくために、見えないところで一生懸命はたらく。べつに見える所で一生懸命だっていいんだけど、それだけでは足りないので見えないところでもはたらく。見えないところのほうが大きいのでいろんなひとがいる。いろんなひとがいればなんでもできそうな気がする。そうして一年がたった。来年もそうしているうちにまた一年があっという間に過ぎていきそうな気がしている。そうなればいい。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。