なんとでも言うてくれ日記

うちにいる五歳児には毎日おどろかされている。最近おどろいたのはこども同士で約束をしてくるようになったことだ。急に「〇〇くんとにちようびにこうえんいくねん、やくそくしてきた」などと言う。ただ時間の概念がないひとたちが待ち合わせをすることは不可能なのだった。

仕方ないので親同士で連絡を取り合い、動物園に行くことになった。四人の五歳児はキリンやレッサーパンダの横を駆け抜け、柵にしがみついてカメを眺めている。動物園のすみっこ、ハムスターやアヒルの檻のとなりに作られた小さな池。そこらへんの川にいるイシガメだかミドリガメだかをじっとみつめる四人の五歳児。「あ、こどものカメが下にもぐったな」「あのおかあさんガメは家にいるんやな」などと勝手なことを延々としゃべっている。カメは「いや俺はお母さんじゃない、オスだし」とか余計なことは言わない。黙っておかあさん役を受け入れてくれる。ありがとうカメ。

店にきたおじさんが「古本はどの棚?」という。あーあんまり分けてなくて、と答えると「うん、うわさは聞いてたよ」とニヤッと笑う。なんやそのうわさってと思いながらほっておく。うわさ通りだと喜ばれるのか。うわさと違っていたらどうなんだ。おじさんは昨日買い取って来たばかりの無造作に積みっぱなしの本の山を熱心にみている。棚にちゃんと並んだ本があるのにそちらはあまり見ようとしない。「こうやって積み上がってる本の方がなんかありそうって思っちゃうよね」とまだ値段のついてない本を何冊か買っていく。古本を目当てに来た人はほとんどの場合、棚よりも無造作に積み上がった山の方をみている。「うーん、図録かあ。重たいなあ」といやそうにしながらも全部の本の背表紙を見ずにはいられないらしい。腰をかがめ、首を曲げて一生懸命見る。山を崩し、積まれた本の一番下まで見る。そして本棚に並んだ本はあまり見ずに帰る。

「なんか評判いいですねえ」とすれ違いざまに自転車に乗ったNさんに声をかけられる。評判てなんですかと聞くが自転車はもうNさんの職場に向かって進んでいる。朝は誰しも急いでいる。立ち話をしている時間はない。「友だちがいい店って言ってましたー」と遠くから聞こえてくる。いいことならまあいいか。もっと褒めてくれ、誰か知らんけど。

トークイベントというものに久しぶりに参加した。本当に久しぶり。大勢の人が会場に座っていて、インターネットの向こうでも同じくらいの人たちが聞いているらしい。周縁と中心のお話。「ここが世界の中心だ」と演者が言った。どんな周縁にもそれぞれの物語があり、周縁に住む人からすればそこが中心だ。自分の暮らしが自分の中心だ。「そこは端っこだよ」と誰かに言われてハイそうですかと暮らしている。端っこと言われつつ端っこを中心として暮らしている。

「メダカのよだれってあわなんやで」と息子が突然言い出した。うーん、そうなんかな。そう言われたらそうかも。「くちからあわがでるやろ。だからよだれはあわなんや。メダカはな」と何度もいう。まあそうかもなあ。メダカはぷかぷかとエサを食べている。たぶん何も考えていない。

三月の終わり、鳥取へいった。本屋でぼんやりする。ぼんやりしているのだが焦っている。全部を見ておかないといけないような気がする。見てどうする。いつの間にか閉店の時間になっていた。近くの喫茶店へ誘われ、四年前にもおなじ喫茶店に来たことを思い出す。あの時はどの質問にもまともに答えられなかった。今はまともに答えられなかったということはわかっている。今もまともに答えられないだろうということもわかっている。わかっているからちょっとラクだ。喫茶店を出て三人で川を渡った。川べりには桜がこれでもかと咲きほこっていた。「こっちから見るとね、水面に桜がうつってきれいですよ」と本屋の店主はいろんな角度から桜を見る。その後ろからぼくもぼんやりと桜を見る。満開の桜はだまって静かに咲いている。どうみられようと桜は何も思っていない。誰になんと言われようと静かに咲いている。

 

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。