ほんやづくり日記

近くの八百屋の店先に本を置いてもらえることになった。古本も新刊も並べていいという。八百屋にはどんな本を読む人が来るのだろうか。やはり料理の本とか食べ物にまつわる本はいれておきたい。絵本もいいな。マンガもいいな。想像しながら本を選んでいくが、最後にはもう分からん!とごちゃっとした選書になる。木箱に詰めて軒先に並べる。ネギやじゃがいもの横にごろんと並ぶ本。とても気持ちいい。本はかっこよくシュッとした本棚ではなく、ごろんとそこらへんに並んでいて欲しい。気付いたらそこにあった、くらいのさりげなさで店の隅っこにあるのがいい。かつて本の仕事を教わった先輩のひとりが「本は嗜好品だ」と言っていたことを思い出す。映画やタバコや酒と同じく生活の余ったところを補うものだと。確かにそうかもしれない。本がなくなって生活に困る人は少ない。どんな人でも三日くらいなら我慢できるだろう。だけど嗜好品と言い切ってしまうよりはもう少しだけ生活に近いところにあって欲しいと思う。「晩ごはんのおかずどうしよう」という問いの次の次の次の次の次くらいに「今度読む本どれにしよう」があったらちょっとうれしい。かつて勤めていた本屋にはクロスワードやナンクロの雑誌の発売日を楽しみに待っているひとがたくさんいた。どれでもいいわけではない。毎月決まった日に出る決まったパズル雑誌を必ず買っていく。人によっては単なるお年寄りの時間潰しにしか見えないかもしれない。けれど朝店が開くのと同時にさっき並べたとこの雑誌を大事そうに抱えてレジにやってくる姿には、娯楽とか趣味よりももっと毎日の生活に近いなにかがある。豊かさとかいった言葉とはまた違う「本を買いたい」という切実さみたいなもの。「あってもなくてもいいんだけどさ」というひとにモノを売るよりは「どうしても欲しい」というひとに届けるほうが気持ちいい。そこに儲けがあるかないかはあまり関係ない。お金のことはちゃんと考えたほうがいいのではあるけれど。

年度末なので町内のひとたちがそわそわしている。四月からの役員を決めないといけない。ぼくは去年運動会のお世話をする係だったのであとは引き継ぐだけだ。次の当番に当たっているひとが店をのぞきにくる。「トリイくんとこにはこのへんの情報が集まってるからな」「来年度もなにかしらたのむで」と太い声で何かを頼まれる。何をしたらいいかは分からない。頼んでいる本人もたぶんよくわかっていない。苦情を言われるよりはマシなのでとりあえずうなずいておく。「まあそうやって褒めといたらな、なんかしてくれるやろ」と本音も大きな声でこぼしていく。ウラがなさすぎてカサカサと笑うしかない。できることはやりますよ、と応えておく。町内の仕事は、仕事であって仕事ではない。一円にもならない役割分担がここに住み続ける限りずっと続く。誰もがちょっとずつ持ち寄ってまわっていく。感謝されることもないし儲かることも絶対にない。ただ「若い」というだけでいくらかの価値はつく。価値がつくことがいいことなのかはわからない。本屋だから頼まれるのではない。どんなひとにも仕事はまわってくる。 だからこそ、ここで本屋をやっている自分にできることを黙ってさがしている。

「まちづくり」という言葉がやたらと出てくる集まりに行く。おとなしく入り口の近くに座っておく。話は聞いているのだけど、まちはわざわざつくるもんじゃないだろう、今さらまちをつくってどうする、と心の中で思っているので本当の議題がなかなか自分の中に入ってこない。まちをつくるってなんなんだ。まちは勝手にできるからおもしろいんじゃないのか、と入り口の近くの席で考えている。口には出さない。

六才になった息子とレゴランドに行く。レゴがいっぱいある。レゴしかない。どうぞレゴで遊んでください、ここがレゴの町です、と全力で訴えかけてくる。マップがあり、遊び方が決められた世界。ふと見上げると高速道路が走っているのが見えて我に返る。つくられたまちにいるのはなにも考えなくていいのでとてもラクだった。息子はつくられた町の遊具で飛び跳ね滑り台を滑る。それは近所の公園にもあるのでは、と思う。口には出さない。

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。

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