人間がかく日記
昼間、本屋に誰もいないのでゴロゴロしていると裏の庭の方からガサガサと足音がする。わりと大きな音だ。人間? でも誰が? そっと覗くとイタチが二匹、椿の根元でじゃれていた。何か悪さをしているわけではなさそうだ。ガラッと窓を開けると二匹ともあっという間に走り去っていった。ケモノの匂いが鼻を刺す。翌日、夜になってまた音がする。外に出しているゴミ箱の上で暴れているいきものがいる。暗くてよく見えないがあのイタチだろう。ゴミを荒らされるのは困る。わざと大きな音をたてて窓を開けると静かになった。が、何かがこちらをみている気配がある。「やめてくれ」と言ってみる。カサカサと小さな足音が遠ざかっていく。ケモノの匂いが鼻を刺す。その後も朝起きると庭に置いているメダカの水槽の水がこぼれてびちょびちょになっていたり、縁側が泥だらけになっていたり、困った痕跡と鼻を刺すケモノの匂いが残されるようになった。たまに庭の向こうの暗がりからじっとこちらをみている小さな影。彼らにとってここはいい遊び場なのかもしれない。誰の庭だとか、汚すなというのは人間が勝手に決めただけのことだ。それはわかる。わかるのだが、ここに住む人間は困っている。たのむからやめてくれ。
またテレビのカメラがやってきた。貧乏な本屋を写すのが流行っているのだろうか。京都の経済がどうとかいう番組だという。ほとんど経済的な活動をしていない本屋にやってきて経済がどうのと聞かれても困る。どういうつもりなのだろう。うちで大丈夫ですか、と何度か聞いたのだが大丈夫だという。結局、「最近の書店の減少についてどう思われますか」などと聞かれて、さあ…とか言っている。放送の日、どんな映像になるのかと思ってみていたら、京都の出版社がいくつか紹介されたあとに「書店側の新しい取り組み」と紹介されていた。自分は「書店側」だったのかと少し驚く。どちらかの側に立っているとは思わなかった。出版社と本屋は別の「側」なのだろうか。
わりと珍しく真面目に話したつもりだった「本屋と出版社と問屋の仕組みのあいだに人間がいない」という話は見事に全部カットされていた。伝わるように話すのはむづかしい。
小さな本屋を応援したり、本を仕入れるようにする仕組みができることはいいことだ。みんなもっと本屋をやればいい。だけど仕組みだけで本屋はできない。いまぼくがこの小さな本屋で新刊の本や雑誌を仕入れることができているのは、電卓の計算や会社のルールを超えたところでたくさんの人が動いてくれたからだ。仕組みを考える人はえらい。ありがとう。でも仕組みだけつくれば本屋は成り立つのだろうか。もし成り立ったとして、その本屋は誰を相手にしているのだろう。仕組みは本を買ってはくれない。仕組みの隙間でうろうろしている人がもっと必要なのだと思う。本屋は人間がやっている。客も、店主も、店員も、ぜんぶ人間がやっている。
この夏、パリでやっているオリンピックに妙にはまってしまった。夜になるとパソコンを立ち上げて画面を眺めている。みるのはセーリング。ほとんどの時間、風を待っている。延々と南フランスの海岸の景色が映っているだけだ。いつレースが始まるのか、誰にもわからない。風が吹いてきたらさっとコースがひかれ、スタートの合図がでる。レースは三十分ほどで終わる。見れたらラッキー。大体眠気が勝って次の日に録画を見ることになる。一昔前のヨットレースは見ていてもなにが起こっているのかさっぱりわからなかったが、今回は違った。G P Sを使った位置情報やスタートラインが映像に加えられていて情報が多い。ただ、わかりやすいとごちゃごちゃしてるのは紙一重だ。一緒に見ている六歳の息子も「黄色チームが早いな」「ゴールしたな」とわからないなりに画面を覗き込んでいる。説明しようにもどこから説明したらいいのかよくわからないし、「風ってどうやってつくられるん」とかいったものすごく根本的な質問が飛んできたりするので油断できない。細かいルールはいろいろとあるのだけれど、ごちゃごちゃといろんな船がいて、選手たちが一生懸命ヨットを操って、最後に誰かが勝ったらしい、くらいの理解でとどめてもらうことにする。ルールをみているのではない。それでは免許更新のビデオと同じだ。ルールの中で人間があれこれしているからおもしろい。ただどれだけ眺めていても画面から風は吹いてこない。今度一緒に乗りに行こうなと約束をしてパソコンを閉じる。で、風ってどうやってつくられるんやっけ。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。