なんにも言えない日記
いつの間にか七五三を終えていた息子がサンタクロースに手紙を書いている。手紙と言っても紙が大きすぎるのでもうポスターといってもいいサイズ。堂々とした願いごと。四歳児には欲しいものがあふれている。
彼が初めて書いた漢字は「本」だった。見る角度によっては「あ」にも見える。まるく踊るように波打つ「本」。本は四角形だと思っていたがそうでもないのかもしれない。
日曜日、本屋が集まる催事場のすみっこでぼんやりと立っている。大阪、神戸、京都、沖縄や東京。どの本屋もお店をほったらかしにして会場にきている。みんな本を売っている。そんなにたくさん本は売れないよ、と思う。ぼくが割り当てられたブースのとなりではトークイベントが行われていた。一日に何組かが入れ替わりに話をする。ぼーっと立っていると「ここ自由席ですか?」「予約してなくても大丈夫ですか?」などと聞かれる。出店者の目印になる名札をつけているのでイベント会場のスタッフに見えるのかもしれない。そんなこと知らないよ、と思いながらトイレの場所などを教える。
ある組のトークでは本屋の店主が自分の店を始めた経緯を語っていた。本が身近なものでなくなった、本屋がどんどん減っている。危機感を持って本屋をはじめた、とか。えらい。世のため人のために働く人はかっこいい。じゃあ自分はどうかと考えたとき、言いたいことは何もなかった。もしこの場であなたの本屋がどんな場所かを話して欲しいと言われたら、話せることはまったくない。本が並んでいます。いろんな人が来ます。毎日ランドセルを背負ってやってくるきよちゃんはもうじき二年生になるみたいです、最近は『おしりたんてい』と「プリキュア」がお気に入りです、という話ならできる。ほかに本当になにもなかったのである。なにもない状態を大切にしたい。
また別の組のトークでは飲食店のライターを続けてこられた方が長く続く店の魅力について語っていた。雑誌に取り上げられるのは新規オープンや奇抜なメニューのお店。だが長く続くのは日々淡々と開けている店だ。言葉にしなくても滲み出る店の風格。毎日毎日繰り返す店主のこだわり。そんな店に魅力を感じるというような話だった。いやもっと別の話をしていたのかもしれないが、ぼくの耳に届いたのはそんな言葉だった。話を聞きながら今ぼくがいちばん欲しいのは「歴史」じゃないかと思った。なんでそんなことやってるんですか、と聞かれても「さあ…これでずっとやってるからねえ」としか言いようがない歴史。「あの人昔からああだから」と言われてしまう歴史。欲しがって手に入るものではない。でも、言い続けていたらいつかなんとかなる気もする。誰かが急にくれたらいいのに。
寒い店の玄関で「地図帳ないかあ」とおじいさんが大きな声を出している。「テレビとかな、見てたらほら気になるやろ、どこの国がどうとか。」確かにぼくもモロッコがどこにある国なのか気になっている。しかし今ここにあるのは座布団くらいあるでっかい函入りの地図帳だけだ。「これはでかいなあ…」とおじいさんも困惑している。それはそうだろう、このサイズに困惑しない人はいない。なんか見繕って探してみますねー、と言うと「お願いします」と大きな声を出しておじいさんは帰っていった。とりあえず帝国書院のホームページを開く。地図帳って高いなあ。思ったよりもいろんな種類がある。「TVのそばに一冊」というそのまんまのタイトルがあった。これかー。気づくと結構な時間がたっている。千円ちょっとの本にかける時間と手間。計算したらあかんやつ。利益とは何か。「そこの大垣書店にあるんちゃいますか」といってしまうことは簡単だ。本屋同士の役割分担というのもある。でもそういうことじゃないなにかを毎日やっている。なにかってなにと言われたら「さあ?」としか言えないのだけれど。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。