あっちとこっち日記

友達を見つけて店の前に飛び出していった子どもを見送る。と、思ったらもうなにかモメる声が聞こえてくる。四歳児にはいさかいが絶えない。なんのルールもないボール遊びでさえすぐにケンカが発生する。どちらにも言い分がある。どちらかが泣き、もう一方はすねる。それでも遊びが終わるわけではない。なんとなく距離は縮まり、数秒後にはまた一緒になって転げ回っている。なんとなく、なめらかに修復される関係。大人が入る余地はない。

いまこの文章を書きながら座っているレジ、というか番台から見える位置に、『ととの はたけと、うたれちゃった しか』という本が無造作においてある。書いたのは「1ねん1くみ はたけやま なぎ」。小学一年生の著者が書いた作文を絵本に仕立てた一冊だ。父の畑を手伝うなぎくんがワナにかかった鹿の死を目の前にして思ったこと。校正されていない文章からはストレートな感情がぶつかってくる。本をひっくり返してうしろからめくると、おじいちゃんである畠山重篤さんのエッセイが始まる。自然に囲まれて育った祖父の思い出が詰まった文章。絵本の巻末に長いエッセイ、というのはたまにみる本の構成だ。ほとんどの場合、別々の本にしたらいいのにな、という感想しか出てこない。長すぎる説明書きは絵本の余韻を消してしまう。細かい文字を読むのに絵本の大きな判型はしっくりこない。両方のいいところを混じり合わせることはむずかしい。『ととの はたけと、うたれちゃった しか』には絵本とエッセイの間に「凪」という題のついた短い文章が挟まっている。小学一年生が野山を走りまわる景色が見えてくる。見守るおじいちゃんの目線と絵本の余韻。この文章があってよかった。

腰のまがったおばあさんが二冊の本を持ってやってきた。図書館のシールが貼ってある。「この本買いたいんやけど聞いてみてくれへん?」と言う。ああ、ちょっと待ってくださいね、と出版社に本を注文する。その前に念のため、版元のホームページをのぞく。在庫の情報が書いてある時がたまにある。ついでに電話かファックス以外の注文方法がないかも見てみる。が、だいたいどちらも書いていない。うちにはファックスがないので電話をかける。本のタイトルを伝えると電話の向こうでぱちぱちとパソコンを叩く音。こちらでもパソコンの画面をぼーっと見ている。こっちのパソコンとあっちのパソコンは繋がっているはずだ。ワールド・ワイド・ウェブ。でもわざわざ二人の人間が間に入って電話をしている。二人ともパソコンの画面しか見ていない。滑稽な時間。突然「在庫ゴザイマスノデ番線コードヲドウゾー」と早口でまくしたてられる。こちらも機械的に必要なことを言う。「デハ◯日ノ搬入デスー。ヨロシクオネガイシマスー」と、電話は切れる。ありがとう、と言われることはほとんどない。本が届き、請求され、お金を払う。そのお金で出版社の人たちは生活している。電話でめんどくさそうに対応しているあの人の給料もそこから出ている、はずだ。しかしお礼を言われることはほとんどない。別にお金を払っていることが偉いとは思わない。千円ちょっとの本一冊で感謝されたいわけではない。なのになぜか残る違和感。電話を切るといつも少し疲れている。二人の人間がわざわざ手を動かして本を届けようとしている。そのことをよかったと思いたい。

『ととの はたけと、うたれちゃった しか』の作文の最後は「にんげんと しかが なかよくなったらいいです。」という一文で締められている。にんげんと にんげんも なかよくなったらいいです、とふと思ったが別に仲良くなくてもいいか、と思い直した。せめてもう少しだけなめらかで血の通ったものになったらいいです。にんげんと にんげんの かんけいが。

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。