ようせい日記

日曜日。子どもと出かける。車で何ヶ所か以前から行きたかった場所をまわった。屋内の施設に入るときは検温を受ける。体温計の前を通ると正常です、正常です、と音声が流れる。妻と子が通り僕の番、「体温が異常です」と機械の声。係の人が寄ってくる。見ると体温計は23.5度となっていた。低っ。再度測って無事「正常です」と言ってもらえた。移動中の車の中で電話が鳴った。相手先は保育園となっている。日曜日になぜ?と思いながら車を路肩に停めて電話に出る。普段だったら運転しながら出ちゃうかもしれない。なんか嫌な予感。「園で陽性の方が出ましたので、明日から休園になります」と早口に告げられる。ああ。電話を切り、次の目的地近くの駅前のロータリーに車を入れる。妻と、どうしよー、ついにきたなーなどうわごとのように繰り返し、「とりあえず今日はウロウロするんやめて帰ろか」と結論を出す。帰宅後、改めて園に確認。息子が検査対象であることがわかる。しかし検査対象とはなんだろう。濃厚接触者はここ二年のうちによく聞く言葉になった。だか検査対象とは。腑に落ちないままこの日はここまで。寝る前にふと沖縄に行った時のことを思い出し布団の中で木下グループのP C RセンターのH Pを開く。予約状況、空きあり。そのまま大人二人予約。「陽性が確認された場合は医療機関、または相談センターにご相談を」との同意書に記名。ここの検査を受けるのは三回目。去年十二月に沖縄へ行ったとき。飛行機の乗る前と京都に帰った来た日の二回。どちらもあたりまえのように陰性だった。

翌日は月曜日。園からのメールで調査対象と繰り返し連絡あり。夕方近くなって電話。「明日の二時に駐輪場にきてください」とのこと。調査は園の先生がするという。いろいろとわからないまま先におとなの検査を。車で昨日予約したP C Rセンターへ向かう。車に子どもだけを残せないので順番に検査センターへ。会場は以前より少し物々しくなっていた。だが基本的にやることは同じ。流れ作業で検査キットを提出し終了。スタッフは若い学生だろうか。終始うつむいてケータイを触っている。帰宅。

火曜日。結果が出るまで念のため店を休むことにした。二時まで特にやることなし。家の前で古紙回収など出していると近所の同級生がお父さんと一緒に帰ってきた。「検査簡単でしたよ」と二、三言話す。なんもなければいいねーと手を振って別れる。時間が来たので子をつれて保育園の駐輪場へ。いつもの駐輪場にはテントとブルーシートが張られていた。それまで「じてんしゃ乗るとこに行くん?」「こっちやで」と威勢よく手を引いていた子が急にしがみついてきた。ブルーシートの奥から園の先生が顔を出す。が、薄い防護服にマスクとフェイスシールド。子どもはさらに尻込みする。手を引いて中へ。同級生がちょうど検査中だった。少し気が緩んだ様子の子は案内されるがままに奥へ。その後は怖がる様子もなく検査終了。「四日くらいで結果お知らせします」と言われ、同級生とは「また来週ねー」と手を振って別れる。まっすぐ帰宅。子は昼寝。夕方、木下グループP C R検査センターのH Pを開く。今日十回目くらいちゃうか。見慣れたページ。スクロールしていくと「陽性」の文字。え。まじか。信じられない、という気持ちはない。やっぱりか。でもまさか。あと、めんどくさ、の感情が一気にくる。

同意書にあった、「きょうと新型コロナ医療相談センター」に電話。繋がらない。京都市のH Pを確認し医療機関一覧を見つける。近所の病院にかけてみる、一軒め、話し中。二軒め、不在。三軒めで電話に出た受付の人に事情をはなす。「陽性なんですね?」と念押しされる。医師が電話を代わった。いきなり「困ります」という。「陽性の人に来てもらうことはできません。こちらもスタッフを守らなあきませんので。」「検査だけしてあとは病院へってそんな無責任なことがありますか。あなた抗議したほうがいいよ。」「以前も薬局で検査受けて陽性って人がありましたけど追い返しました。検査したものが責任持って保健所に通知するべきでしょ。こっちもヒマじゃない。」と一気にまくしたてられる。なぜ怒られているのだろう。ほかの病院に電話する気が一気に失せる。夜にオンラインイベントが控えていたので一旦離脱。準備の合間にふとみると妻が電話で話している。繋がったん?と聞くと頷く。相談センターに繋がったらしい。ただ言われることは同じ。「医療機関を受診してください。」もういいよ。ぐったり。体調変化なし。

オンラインイベント「おもろさうし研究会」は、いつもの和やかな時間。ひとときコロナのことを忘れる。オンラインでのイベントはここ二年で一気に浸透したけど、何かを絶滅させた気がする。イベントとは何か。終了後、妻と今後のことを話す。妻は何軒か病院に電話してくれていた。どこも断られたらしい。結論はでない。とにかくわかったことは、行政は助けてくれないこと。規則正しく、免疫高めて暮らすしかないこと。妻と子が寝たあと、ダメもとで相談センターにかけてみる。話し中。25回くらい鳴らしたら急につながった。大学生のような声の女性。事情を話すも「医療機関を受診してください」と繰り返すだけ。「こちらから病院は紹介できません。地域を広げて探してもらえますか」と言うので、京都中の病院にかけろってことですか、と聞いてみる。「それは…そうっすねえ」言葉遣いや反応が若い。こんな夜中にコールセンターで働く若者に三十過ぎたおっさんが声を荒立てるほどダサいことはない。冷静に話を聞く。受診したら保健所に通知が行くので、そうしてください、と言う。ははん。結果が出ているのにさらに受診しろと言うのは行政の都合だけではないのか、受診のために出歩くことが他の人に感染させるリスクではないのか、保健所に通知がいったところでその後はどうなるのか、いろいろ聞いてみる。保留音がなり、しばらく待たされる。保留音がとぎれ、上司と話している途中の声が聞こえてくる。「一度こちらから折り返しますね」と言われ電話は切れた。風呂に入ろうとしていると、すぐに電話が鳴った。さっきの女性。「こちらから病院を受診しなくていいと言うことは申し上げられません」「どうしても受診したくないとおっしゃるなら…」などと言う。ちょっと待ってください、受診したくないんじゃなくてできる病院がないんで困ってるんです、あと最初に受けた検査が保健所と連携してないというのがよくわかりません、と伝えてみる。急に電話の相手が代わった。なぜかカタコトの日本語を話す。中国系の人だろうか。「カクニンケンサはウケテモラウ必要がアリマス」。またか…、ため息。と、電話の主が続ける。「ナゼ検査を受ケマシタカ? 感染の不安がアッタカラ、デスネ。デハ、保健所と提携シテイル無症状の方のタメノ検査会場、アリマス。アト、保健所に直接連絡をトッテモラウ窓口もアリマス。」え。どこですか。クリニックの名前と京都市のサイトを教えてもらいメモ。電話が切れた。なんだったんだ。脱力。寝よ。

二月九日。病院を探すか、もう一度別の会場で検査を受けるか。単純なことだがどっちもやる気が出ない。隔離期間などダラダラと調べる。休業の補償も。雇われている人は有給の代わりになる制度があるらしい。だが妻の会社はまず有給をとって、使い切ったらその制度を使えという方針だという。有給を使い切ってからコロナ以外の何かがあったらどうするのだろう。個人事業主にも補償がある。ただ、「委託を受けて個人で仕事をする方向け」とか書いてある。誰かから頼まれて本屋をやっている覚えはない。対象外。もう一つは小売店の売り上げ減少に対する補償。これなら、と思うが「自主的な休業により…売り上げが減少している場合は対象外です」とか書いてある。自主的、とは。自分が陽性で人にうつす可能性があるなら店は開けれない。でもそれは自主的なの? 役所言葉はわからない。

二月十日。保育園から連絡。状況どうですか? と。病院が見つからないことなど話す。保育園の園医を紹介してもらう。一度電話して話し中だったので諦めていた。もう一度かけてみる。保育園からの紹介で、と前置きして状況を説明する。「一度きてもらいましょうか」。え、いいんですか。30分後に行くことになった。徒歩五分のところにある小さな病院はドアが開けっ放しで無人だった。すいませーん。と声をかけるとおばあちゃんの先生が出てきた。防護服とフェイスシールド、マスク、曲がった腰。「ではどうぞ」奥に通される。「あなたその咳はいつから出てるの?」と聞かれ数年前からずっと寒くなると乾いた咳が出ることを話す。「コロナよりもそっちが心配ね。咳止め出しときます。落ち着いたらもう一度来てね。陽性の届けは保健所に出しておきます。連絡は来ないかもしれないわね、今忙しそうだから。」あっけなく診断終わり。「お金はいらないの」と帰される。

隔離生活五日目。当たり前のように保健所からの連絡はない。ストーブの灯油がなくなりそうだ。日用品はネットの通販でほぼなんとかなる。スマホで注文し、翌日には家の玄関先に置かれている。別にそんなに急いでいるわけではない。「ゆっくり便」とかないんだろうか。翌日Yさんから電話。「食料買って持っていきますね」いきなり日程の段取りが始まる。いつもはっきりしないYさんだが今日は有無を言わさぬ雰囲気。珍しい。だがその強引さがありがたい。電話を切ってから欲しいものをLINEで送る。野菜(ネギ水菜人参などなんでも)、豚肉鶏肉など、ウィンナー、冷凍のうどん、お揚げ。息子がアレルギーや好き嫌いのない子どもで本当によかった、と思う。夕方になってふと思い立ちYさんにLINEを送る。「今日、来るのアレやったらクルマで取りに行きましょうか? マンションの駐輪場とかに置いてもらったらこそっと取りに行きますー」すぐに折り返しの電話。仕事終わりに自転車で来ようとしていたとのこと。三十分くらいかかる距離。行きはいいが帰りは急な坂。やはり取りに行こう。夜遅い時間なら人と会うこともないだろう。セルフの給油所なら気をつけて行けば誰とも会わないはずと思い灯油缶も準備。普段あまり夜に出かけたがらない息子も今日はすなおに用意をしている。日が暮れてから家族三人で車に乗った。マスク、アルコールスプレーと除菌のウェットティッシュ。窓ガラスの向こうには見慣れた丸太町通の街並み。広い給油所のいちばん端に灯油の販売スペースがある。照明がやけにまぶしい。Yさんに連絡を入れる。もう着きます。置いてある場所を教えてもらえたら。だが返事がない。マンションの下に着いてしまった。「今からおります〜」と返事がきた。車に乗ったまま待つ。大きなスーパーの袋を抱えたYさん夫婦が出てきた。が、どうしたらいいのだろう。車の窓を開けるわけにもいかず変な時間が流れる。道の向こうに置いてもらい、二人が一旦離れてから車のドアを開けた。なんじゃこれ、と夜道マスクの下で笑いあう。袋には手作りのクッキーと唐揚げも入っていた。「ありがとう〜」と手を振る。三歳児はもうクッキーを開けてほおばっている。

そのまま車を家とは反対方向に走らせる。午後十時すぎ。すぐに寝ると思った息子は後部座席でじっと五日ぶりの外界を見ている。「あそこあんたが生まれた病院やで」とゆびをさすが反応はない。国道を特にあてもなく走り車は滋賀県に入っていた。山を越えると琵琶湖が見える。真っ黒な水面。湖畔には巨大なイオンがギラギラ光っている。人の姿は見えない。そもそも建物には窓がない。歩道を歩く人もいない。「あ、でんしゃ」などとたまに息子がつぶやくのでまだ起きていることがわかる。助手席の妻とボソボソ話す。適当に国道をそれ、草津駅の下をくぐって湖畔道路へ向かう。両サイドは畑。真っ暗。誰もいない。すれ違う車も少ない。県道は突然途切れ目の前に真っ暗な湖が広がっている。向こう岸に光が見える。あそこで暮らしている人がいる。もしかしたらあの中のいくつかも隔離生活中の家の光かもしれない。いつもよりも車のガラスが分厚い。世間とこちらのさかい目。こちら側には人が三人。向こう側には、いまは誰もいないように見える。暗い。しばらく湖畔道路を走ると公園があった。駐車場には一台も車は止まっていない。そろりと車を入れ近くに誰もいないことを確認。と言っても真っ暗なのでライトを消すとほぼ何も見えない。一瞬の沈黙。息子が「こわい」と言い出した。ドアを開ける。地面があった。なぜかほっとする。じゃり、と足音がした。風が吹いている。助手席と運転を交代する。ドアを閉めるとまた世界が向こうとこちらに分かれた。こちら側には人が三人。妻に運転してもらい、眠らない息子を膝にかかえてゆっくりと車は家に向かう。

・・・

あれから二ヶ月。保育園からは毎週のように陽性者のお知らせがくる。休園日は三日になり、一日になり、ついに先週は陽性者が確認されましたが保育は継続しますとメールが来た。ニュースは毎日何千人かの陽性確認を伝えている。毎日何千人かがあの暗い夜を過ごしている。隔離中に車で琵琶湖みにいく奴そんなおらんやろうけども。京都駅前の古本市と梅田の百貨店での古本POP UP SHOPがほぼ同時に始まった。どちらも人出は多い。街の景色は以前と何も変わっていない。以前っていつだ? 二ヶ月前? 二年前? もうどっちでもいいのかもしれない。気付いたらこの場所で本屋をはじめてから三年が経っていた。

  

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。

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