食べて嗅ぐ話

家の二歳児がイチゴをほおばっている。イチゴは大人の口にも大きいサイズだ。そんなに口に入れたらイチゴの果汁で溺れるのではないか。イチゴで溺れた人っているんだろうか。じっと見ていると二歳児がごくんと喉を鳴らして「もういっこー」と言った。

ヒマなのでぼーっと外を眺めている。外を眺めていると白い袋を持った男の子がやってきて「カスタードクリームと粒あんどっちがいい」と聞く。え、どっちが好きなんと聞くとクリームがいいと言う。「クリームはもう一個買ってある」。じゃあ僕もクリームもらおかな、と言いつついま僕がクリームもらったら残った粒あんはどうなるんや、クリーム二つ残してあげた方がお姉ちゃんと喧嘩にならんくていいんか、でもクリームと粒あんが残った方が二人で半分づつ食べれて両方味わえるしいいかもしれん、など5秒くらい考える。ずっしり重い袋はまだあたたかい。頭からいくか尻尾からかじるか、コーヒーとか淹れようかお茶にしようか迷っている。迷っていると立て続けにお客さんがやってくる。この三日間まったく誰もこなかったのになぜ今。男の子はとっくに隣のマンションに帰っていて、たい焼きはすっかり冷めている。

遠くに行けない。言ったことのある場所なら過去の記憶にたよることもできる。行ったことのない場所は文章を読んだり、映像を眺めたり、地図をずっと見たりする。地図はずっと見ていられるね。知ってる場所も知らん場所も。匂いと味は難しい。「あそこにいきたい」は「あそこの匂い変やったな」とか「あれもっかい食べたい」ととても近い気がする。

フェリーで別府に行ったことがある。そろそろ、というところで自動車に乗って着岸を待つ。カンカンカンという変な音。ズーンという振動。船の甲板がガバーっと開く。途端に乗っていた四人のうち三人が「なんやこの匂い!」と騒ぎ出した。硫黄の強烈な匂い。別府に帰ろうとしていた一人だけがぽかんとしていた。とり天もおはぎも、少しづつ硫黄の香りをまとった町。どうやったって京都では再現できない。

通信の手段のことを考えている。手紙は文字を送る手段。電話ができて声がそのまま届くようになった。テレビは映像を一方的に送ることができる。テレビ電話やらなんやらで人間は映像を互いに送り合うようになった。なんて便利。そう考えると文字しか送らないファックスとメールはちょっとした退化なのだろうか。

で、次の進化は匂いと味なのではないかと思っている。なんか機械を使って匂いが届いたらいいじゃないか。「あの名店の味をご自宅で!」とかそういうことではない。今、あの場所の香りを居ながら体験できる通信。なにに使うかとかはまあいい。電話をしていて、急に「ちょっとこっち匂いも送るね」とか言って香りの通信がおもむろに始まるのだ。人んちの匂いってみんな違うしとてもいいよね。「これいたんでるかな?まだ食べれる?どう思う?」「ちょっと匂いしてみたら?」みたいな会話が遠く離れた二人の間でできたらいいじゃない。ロマンチック。あ、古本の状態を確認するのはどうですか。通販サイトにはタイトル、著者、出版された年、価格などがのっている。画像で状態を確認することもできる。でもいざ届いてみたらなんかタバコの匂いがついていた…とか。そんな残念なことも「匂い」のボタンをクリックすればよい。この世からお買い物トラブルがひとつなくなる。あと「本屋に行くとトイレに行きたくなるのはインクの香りのせい」という話が本当ならば、本屋の匂いを送ってもらえば便秘が改善したりして。じゃあ書店員は全員快便なのか。しらん。ネットの広告に匂いが付きだしたら焼肉屋は繁盛すると思う。

思えば鼻は顔のど真ん中にある割にあんまり注目されてなさすぎなんじゃないだろうか。顔面から電柱に激突したら一番ダメージを受けるのはおでこと鼻なのに。もっと活躍する場を与えてやってほしい。誰か開発してください。香り送る装置。匂い電話。電臭器。

そんなことを延々と考えながらカスタードクリームのたい焼きをもぐもぐ食べているくらいに今、うちの店はひまだ。もう二年前の生活に戻ることはできないと思う。人はなにかしら相手に感染させるものを持った生き物だということがよくわかった。ウイルスのような悪いものだけでなく、いいものも含めて。だけど少なくともどこにでも気軽に出かけてその土地の匂いを嗅げる世の中には早くなればいいね。そんなことを延々と考えながらカスタードクリームのたい焼きをもぐもぐ食べている。

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです