ダラダラ日記
十月、国体が滋賀県で開かれた。セーリング競技の役員をやってくれとのことでのこのこと出かけていく。といっても下っ端には何もやることがないので与えられた持ち場を抜け出し高知県チームのテントでダラダラしているだけの四日間である。数十年前から時が止まったような監督。早送りみたいに入れ替わっていく大学生と高校生。慣れない琵琶湖の風と藻。いいレースをしてほしいと思いながらも、どこかでそんな気持ちよく引退されてたまるかとも思っている。ギリギリのところで一歩届かなかった悔しい記憶だけを抱えて卒業してからもダラダラと競技を続ければいい。十年ちょっと前、自分の引退レースは徳島大学にコテンパンにされて終わったので悔しいもなにも残っていない。だが唯一、最終レースの上マークだけはトップでまわったのだった。高知の海でオレンジ色のスピンセールを一番にあげた。そして後ろにいた香川大学の船にあっさり抜かれて負けたのだった。呆然とするしかない。そうして呆然としたまま今もヨットになんとなく関わっている。狭い琵琶湖畔のバースで就活や内定式の話をする大学生を眺めながらスロープの藻をかいたり運営のボートにガソリンを入れたりしているのは全部あの最終レースのせいだ。
三重、下鴨、名古屋、もっかい三重、それから近所の八百屋。イベントの出店が続く。世の中がイベント化している。イベントでしかお金を使わない、使えないことになりつつある。日常がおろそかになってゆく。店は日常だと思う。日々の売り上げがなければイベントには出られない。イベントに出ることで店を維持するお金が手に入る。どっちが大事かと言われると店である。イベントにでるでないはそこから店にもきてくれるお客さんがいるかどうか、とかつて堂島で店をやっていた古本屋の先輩が言っていた。古本市でうちのことを知ってきてくれることはうれしいことだ。だが古本市の品揃えを店でもやっているわけではないので期待に応えられている気がしない。申し訳ないことの方が多い。そもそも「品揃え」というものにあまり興味がないのであるものを並べているだけなのだ。店では店の、出店先では出店先の売れ筋がある。重なることは少ない。
古本の催事の前には値段をつける仕事が待っている。古本の値段はだいたいの相場を調べてつける。仕入れ値を気にすることは少ない。どうしても相場がわからない本は仕入れ値で考える。相場より安かったとしても損しなければそれでいい。自分が買い物をする側に立ったとき、安く手に入ったという記憶は意外と長く残っているものだ。その記憶が店名とセットになってくれたらラッキー。特に期待はしていない。新刊は値段を気にする必要がない。仕入れた値段を思い返して、出店料と利益がうまくいっていれば持っていく。持っていけないものも多い。損をしてでも持っていくものもある。返品できない、店では売れないかもしれない、待っているひとがいるかも知れない。理由はいろいろある。結局、お金のことだけ考えるのは苦手だ。イベントに持っていく本はそこに誘ってくれたひとの顔を思い出しながら決める。別にそのひとに買ってほしいわけではない。ほとんどの場合、主催者は本をゆっくり見ている余裕などない。どんなお客さんが来るかどんな日になるかは考えてもわからない。主催者の顔を思い出すぐらいしか確かなヒントがないというだけだ。
月末。雑誌の配達とお金の支払いと古本の買取りが並んでいる。どういう順で動けばいいのか、考えながら車を運転するが結局いつも同じ道を行ったり来たりしている。うまいこと一筆書きで終わればいいのだがそんなにうまくはいかない。京都の道はあまり綺麗にカーブしていない。太秦に雑誌を届け、丸太町の銀行に寄って、寺町の百貨店にチラシを渡して帰ってきたらもう開店時間をとっくに過ぎている。ようやく開店した店をほったらかして家賃を払いに行く。大家さんは「あなた暖かそうな服着てるわね」と二回言った。三重で出店していた催事の入金がありほっとしているともう夕方だ。、今日は早く帰ってくるはずの息子がいつまでたっても帰ってこない。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。


