ぐるぐるまわる日記
七月、京都の町には山鉾が並ぶ。にぎやかな行列が町をまわり、神輿が行ったり来たりする。ひとびとはその隙間できゅうくつそうにちまきをもらったりビールを飲んだりしている。息子は今年も子供神輿に誘ってもらった。炎天下、ふたつかみっつ学年が上の子たちに混ざってダラダラと神輿をひく。最初のうちは知らない子たちに囲まれて小さな声しか出していなかったが、神社に着く頃には暑さにやられて小さな声しか出なくなった。途中、氷水を頭にかけてもらっているときがいちばん元気だ。
「古本を引き取ってほしい」と高知から依頼がきた。呼ばれても行けないときもあるが、行けるときに呼んでもらえるなら行ったほうがいい。レンタカーを借りて早朝に京都を出る。淡路島を渡り徳島から山に入る手前のサービスエリアで休憩する。急に降ってきた前が見えなくなるほどの雨は高知に着く頃にパタリとやんだ。なくなった古本屋の親父さんが残した大量の本。家族に内緒で手に入れていたという山の上の倉庫、小さな遺影がふたつおかれた部屋、そして庭の向こうにあるもうひとつの倉庫。そのすべてに途方もない量の本がある。なにをどこまでやることが正解なのか、残されたひとたちの気持ちと、旅立ってしまったひとたちの思いを想像しながらひたすら手を動かす。モリオカさんはこの本をどうするつもりだったのだろうか。モリオカさんだったらこんな時どうするだろうか。
二日目の朝、山の倉庫に向かって車を走らせているとまた激しく雨が降ってきた。車通りの多い幹線道路を通学途中の子どもたちが傘をさして歩いている。ひとりが傘を横に向けて、盾のようにしている。遊んでたら濡れるでと思っていたら、車道と歩道の間に大きな水溜まりがあったのだった。しぶきが上がらないようにぐっとブレーキをふむ。なくなった古本屋の親父さんは子どもたちのことをいつも気にかけているひとだった。本屋を始める前は学校の先生をしていたという。絵本や児童文学や戦争にまつわる本が目につく。詩、文学、読書論、エッセイ、それから高知の郷土資料。選んでいるようで何も選んでいない。荷台を段ボールでいっぱいにしてドアを閉じる。帰りは岡山をまわって帰ることにした。瀬戸大橋を渡ったあたりでまた激しい雨。とても倉庫に入り切る量ではない段ボールたちをどうするのか、運転しながらぼんやり考える。どこかからきた本はどこかに回せばいいのだ。自分の元に引き取ったような気もするし、いっときのあいだ預かっているだけのような気もする。古本は英語でSecond hand booksという。ふたつめの手にある本。ふたつめもあればみっつめもある。よっつでもいつつでも、いろんな手をぐるぐる回っていけばいい。
市役所の前の路上で、新しい雑誌を受け取る。店の前まで運送のトラックが来れないというのでドライバーさんと相談してそういうことになったのだ。もう五年くらい続けている。「今日はおみやげありますか」といわれて、おねがいしますと段ボールを渡す。中には返品する本が入っている。今月中に東京の倉庫についてくれるだろうか。今月の仕入れた本の数と、支払いの金額をなんとなく計算して返品をつくる。だが手渡してから一週間かかるときもあれば二日で入帳されているときもある。計算ができない。返品したものが返ってくることもある。逆送という。逆走ってなんの逆なのだろう。新刊書店で働いていたときは毎日毎日十個も二十個も段ボールを返品の雑誌でパンパンにしていた。入荷する雑誌はビニールに包まれて縛られただけの状態で届くのに、返品する雑誌は段ボールに入れる。段ボールが足りないときは売ってやるから買えと問屋は言う。段ボールに入れて送られた雑誌がふたたび売り場に並ぶことはほとんどない。いっとき売り場に並び、次の号が出ると返っていく。売り場には次の雑誌が並ぶ。雑誌売場だけではない。書籍売場も同じだ。新しい本が出て、古くなった本は返品される。売り場を本がぐるぐる回っている。常に移り変わる柔らかい本棚。入荷があるから返品が出る。返品ができるから注文ができる。
急に暑くなった七月の真ん中、近所の三階建のいちばん上の部屋からマンガを下ろすことになった。「三国志だけ残しておいて」といわれている。ベッドとテレビと本棚があるだけの部屋で、枕元の本棚の上から順番に空にしていく。本を抱えてぐるぐると狭い階段をまわるように降りる。なん往復したのかわからなくなったころ、玄関に積みあがった段ボールを見て依頼主がポツリと「息子はね、一年前に亡くなったのよ」と言った。三階に戻り、部屋の電気を消す。枕も布団もそのままになっているベッド。部屋の主がいなくなって、もうすぐ一年になるという。大きな本棚のはしっこに三国志だけが残っている。
※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。

