かたりあふ書店のことを急に思い出したので

その古本屋は、高知市のさびれた港の近くの国道からだいぶ外れた道路沿いにぽつんとあった。三回に一回はシャッターが閉まっていて、すごすごと帰るしかなかった。開いている日も棚と棚の間には床から本が積み上げられていて体を斜めにしないと入れない。かき分けるようにして奥の棚までたどり着くがどこが奥なのかもわからない。引っ張り出した本には値段もついていない。この店はどんな客を待っているのか、まったくわからなかった。でも秘密基地を見つけた子どものように何度か通って勝手にドキドキしていた。

卒業論文をダラダラと書いていたとき、ふとその店に行こうと思った。探していた本は別に大学の図書館に行けばあることはわかっていた。文庫にもなっている有名な本なので購買の小さな本売り場にもあるだろう。ただ時間稼ぎのようなつもりで店を訪れた。店主に本のタイトルを告げる。話したのはこれが初めてなのではないだろうか。「あのへんの下の方にあるんやないろうか」と入口近くの本の山を指さされ、ガサガサやっていると確かに探していた本が出てきた。隣の山の下にも同じ本が見える。もちろん値札はついていない。「千円から五百円のあいだで、いくらでもえい」と店主は言った。結局五百円だけ受け取ったのではなかったか。

大学を卒業し、実家のある京都に帰ってからも高知に行くときは時間を見つけて店に足を運んだ。挨拶をすると店主は僕のことを覚えているのかいないのか、曖昧な挨拶を返して店の外に出ていき、ぼんやりとタバコを吸った。あるとき急に「お腹は減ってへんかえ」と聞かれたことがある。近くのスーパーの駐車場にあるうどん屋に入り定食をご馳走してもらった。店主は向かいに座りコーヒーを飲んだ。「京都はえいねえ」と何度も繰り返し、「京都に行って絵葉書が買いたい」と言った。

帳場の近くに無造作に積んである本を触ろうとすると「それは今読んでる本」と困ったように言う。店には電話がなく、携帯も持っていないし、メールもできないと言う。通信手段は手紙が直接行くしかない。帰り際に必ず「かたりあふ通信」というA3の紙を何枚か渡される。読んだ本のことが手描きでびっしり書かれている。ドイツやイギリスの文豪や長田弘など詩人の言葉が引用されていることが多かったように思う。たまに新聞の切り抜きのコピーが貼り付けられていることもあった。大きなファイルから何号か抜き出して何も言わずに渡される。

僕が本屋で働き始め、古本市を企画したときも参加してほしいとわざわざ店まで行った。本に値段をつけるのが難しい、と少し困った顔をしながら「僕が本を送るき、そっちで値段つけて売ってくれんろうか」と言った。しばらくして送られてきた段ボールを開けるときちんと値付けされた古本がどっさり入っていた。出版社で働き始め、原稿を依頼したときは依頼書を郵送した。すぐに速達で送り返されてきた封筒をみたとき、返信用封筒も入れずに送った自分が恥ずかしかった。今でも恥ずかしい。

あるとき訪れると店の床に積んであった本が全部片付きスッキリしていたことがあった。びっくりしていると「ここらは津波が来るっていうきね、本は山の上の倉庫に入れるようにしたが」と少し寂しそうに笑った。「倉庫に行ってみる?」と誘われ、そのまま店のカギをかけて車を出した。高知市を北にぬけ、高速道路をくぐり、ついたのは想像よりもずっと大きく本格的な倉庫だった。本は全てスチール製の棚に並んでいた。蜘蛛の巣をくぐり棚の隙間を何周もした。両手いっぱいに本を抱えて外に出ると「それ全部あげるき」と店主は無造作に空の段ボールを差し出した。

子どもを連れて行くようになると「ここには楽しい本はないねえ」と申し訳なさそうに息子に話しかけ「京都はえいねえ」と言いタバコを吸った。本屋を始めることは手紙に書いて送った。返ってきた封筒には「かたりあふ通信」が入っていて、そのうちの一枚には僕が送った手紙がそのままコピーされて掲載されていた。開店日にはパチンコ屋の前にあるような大きすぎる花が届いた。最後に訪れたのは去年だったと思う。「最近はあんまり安くせられんで」と言いながら電卓をたたき、いつものように「かたりあふ通信」を何枚か受け取り、また、と手を振って帰った。

高知に行けば、次もその次もお店に行くのだろうなと思う。「本は売れんで」と森岡さんはいつもの笑顔で迎えてくれるような気もするし、もとから何もなかったかのようにお店はなくなっているような気もしている。  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。