ふようふきゅう日記

「ふようふきょう」という言葉が飛び交っている。お控えください、と。

本に賞味期限はない。本が読めなくて肺炎になることはたぶんない。いつでも開いててなんかある。それが本と本屋のいいところ。だから「ふきゅう」はわかる。いそがなくてもいいよ。本買いにきたくらいでそんな急かされてもこまる。できるならのんびり選んでほしいし、ゆっくりしていってよ、といつも心の中でつぶやいている。別の用事があるならそれ済ませてからでもいいやんか。でも「ふよう」っていうのはどういうことなんだ。

オザワさんが神戸からやってきた。「最近どうですか」とか言いながら棚を一生懸命みている。ついヘラヘラと話しかけそうになるのをこらえながら様子をうかがう。「これと…あともう一冊買ってもいいですか」と不思議なことを聞く。「これ…」と指差したのは『90年代の若者たち』島田潤一郎(岬書店)だった。版元にもうないことはお互いに知っている。在庫をもっている書店も少ないらしい。「自分が読んでたぶんもなくなっちゃって…」となんだかうしろめたそうにもごもご言う。本屋で買ったらあかん本ないでしょう。最後の一冊ですけど、とこたえてもまだなにか納得がいかないようだった。しばらく考えて「いや、やっぱり美しくないなこういうのは」と言い出した。最後の一冊の旅立ち方として、同業者が買っていくのは美しくないという。もっと手にするべき人がいるはずです、といって別の本を物色しはじめた。オザワさんが帰ってからしばらく美しい買い物のことを考えた。

店の外の棚を整理しているとてっちゃんがむこうから走ってきた。どこかに急いでいるらしい。「こんにちはー」といいながら頭をさげる。おー、と適当な声が出る。どこいくんやー。数ヶ月前、初めて来た時はお母さんにしがみついて離れなかった子が。ねえ。こんにちはーって言ったぞむこうから。しばらく呆然と背中を見送る。そんなびっくりすることちゃうか。あ、なんちゃらサバイバルのシリーズ、何冊かみつけたよって言い損ねた。『海のサバイバル』先に読んだけどちょっとおもしろかったで。

長谷川さんがなにやら絵本をもってきた。「これ読んだ?よかったよ」と手渡されたのは『死んだかいぞく』下田昌克(ポプラ社)。長谷川さんはたまにこうして絵本を手渡してくる。そういうときは黙って従うことにしている。ぱらぱらめくるだけのつもりが、いつのまにか没頭してしまった。どきどきする本やなこれ。なんやろねこの感じ。「ええやろ」と二人でとくになにも生み出さない会話をする。

たなべさんがめずらしく強い口調で「とりいさんぜったい読んだ方がいいです」と言い出した。『ごろごろ、神戸。』平民金子(ぴあ)。へーそうなんや、といいいながら神戸の話ねえとあまり乗り気ではない。たなべさんはまだ話している。「ごろごろってベビーカーの音で」とか。そうかー、それは読まななあ。と一冊だけ注文してみた。段ボールからだしてぱらぱらめくってみる。うーんこれは。そっとスリップを抜いて枕元に置いておくことにする。

改めて振り返ると、やっぱり「ふようふきゅう」だなあと思う。「ふようふきゅう」なやりとりばかりだ。美しい買い物も、なんでもない挨拶も、どうしようもない会話も。本を売ることが仕事だと思っていたがそれすらしていない。教えてもらってばっかりじゃないか。一円も儲からない。「ふようふきゅう」なことばかり起こる。

「ふようふきゅう」な日常が本当に不要だというのなら、不要のままでいてやろう、とおもう。いままでも不要だった。これからも不要のまま。なんのために、どういう目的でとか、いらない。不要な存在。それでいいのではないか。不要な存在が、いちばん必要なのではないか。

と、そんなことを考えながら近所の食堂ときわで中華そばをすする。大将がテレビを見ながら大きな声で「わしら貧乏人はコロナなんて高級な感染症にはかからへんのやで」と言った。あ、そうなんや。よかったあ。

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです