向いてないんちゃう

 Yさんは向いてないんちゃう、といった。自分は本屋とかするタイプちゃうと思うわ、と。いっときの「辞めたい」という感情だけで動いてる。流行とか追っかけるタイプでもないやんか。もっと別の、畑耕して土触るとかヨット乗ってるとかの方がいいんちゃう。いつものヘラヘラ笑う表情のまま、そう言った。

 Mさんは、もう本屋はいらん、といった。この町には同じような店がありすぎる。でも、ブックセンターっていうのはいいかもな、と。

 Kさんは人格変わるくらいまでやったらいいやん、といった。みんないろいろやったけどあかんかったとかいってあきらめるやんか、でもな、そんなん人格変わるまでやってへんやん。なんもやってへんやん。人格かわったしなおれ。人と話すんとかまったく興味なかったし。そのときKさんは結構真面目な顔をしていた。

 Nさんが「鳥居区」といっていた、と聞いた。上京区、左京区、いろんな町がある。鳥居区もそのスキマにあるらしい。N区もきっとある。

 Hさんはなにか言っていただろうか。僕が何かをいうのを待っているのかもしれなかった。この人はなにをするのだろうか、と待っている気がした。きっと今も待っているのだと思う。その期待にまっすぐ目を向けられないときがある。なんやかんやと別のことを振ってみる。どれにも応えてくれる。でも。

 Yさんがやっとそう思いましたか、といった。もうけましょうよ、もうけたいんですよ、といった途端、Yさんの目が開いた。待っていたのかもしれないな、と思った。

 梅田の路上でNさんが、空っぽの本棚は美しかったといった。その光景が残っていると。消えて無くなることができる本屋をめざしたい、その原点は定有堂の開店前の景色だった。ぼくはしばらくだまって歩いた。その美しい光景をながめながら。

 Nはなんといっただろうか。目の前の一人一人に真摯に向き合いたいだけ、といっていた気がする。寒い日だった。冷たい声だった。それはとても印象に残っている。

 評価なのだとおもう。ひとつひとつの声がすべて。自分に向けられたもの。自分ではない遠くへ向けられたもの。すべてが自分を評価している。突き刺さるようなことばもある。この世のものとは思えない、耳に入れたくもないようなことばもあった。そのすべてが自分への評価なのだと思った。

 ことばによって、ひとからの評価によって仕事や暮らしは生まれていくのかもしれない。そのことばは自分の上に層をつくるだろう。重くのしかかり、自分の表面を歪めることもあるだろう。それは悲しい結果になるかもしれない。去って行くひともいるだろう。

 でもそうだとしても、最後に、いちばん身近なひとに、つるんつるんのまっさらなところを一生懸命伝えられたら、それでいいのかもしれないな、と1月の終わりの寒い日にふと思った。お風呂場で泣くこどもにシャワーをかけながら。