正しいことができない日記

 ギラギラとした金箔と漆塗りの壁を眺めながら区役所のエレベーターを待つ。いつ来ても落ち着かない空間。おばあさんの乗った車椅子を押してきたおじいさんが、投票所の入り口で「ここからは本人以外の人は入れません」と止められている。誰も押すことのなくなった車椅子は動かない。おばあさんも動かなくなってしまった。期日前投票。政治について思うところはいろいろあるのだけれど、わざわざ言いたいことはなにひとつない。正しいことを声高に叫ぶ人がたくさんいるなと思う。「一票で政治を変えよう」とかね。投票には行った方がいいよ。生活と政治は無関係ではないから。でも、その権利を行使するのは「正しいこと」ではないのではないか。投票しない人は「ダメなやつ」で、「投票しようね」と他人に迫ることは「いいこと」なのか。そのへんがよくわからないのですべてにおいて思考が停止してしまう。政治はこの国をつくってるのだろう。だけどこの国をつくってるのは政治だけではない。正義には影がある。大きな声を出していると他人の声は聞こえない。いまあってほしいものは「正しさ」ではなく「当たり前」の感覚なのだと思う。他人が投票所についてきたら公平な選挙ができなくなる、それは正しいことだ。だけど、車椅子を押す人がいなくなったら車椅子は動かない、それは当たり前のことだ。

 三歳の息子が店の前の道路に木端を広げている。右から順に「こまち」「かがやき」「のぞみ」だという。違いはわからない。少し目を離した隙に、三台の新幹線はすべて昆虫図鑑の外函に頭から突っ込んでいた。それ、全部売りものなんやで。やめてくれるか。ぶどうのグミを食べるか、ももジュースを飲むかが毎日の生活の最大の争点。この人に投票権を持たせようという人はいないだろう。だけどこのひとも生活をつくっている。自分と、誰かの。
 朝、保育園に入りたくないと門のところでぐずっていると「いっしょにいこー」と同級生が声をかけてくれた。不機嫌な三歳児にはそんなやさしさも届かない。あろうことか迎えにきてくれた子にパンチする。泣く二人。ごめんなあ。
 三日後、同じ子と保育園の門で出会う。はらはらと見守るおとなをよそに、「ちょっとまってー」と二人は仲良く教室に入っていった。世の中の全ての争いがこうだったらどんなにいいか。

 年齢、国籍、その他いろいろ。政治にはどこかに線引きがある。ここから先は入れません。関係者以外立ち入り禁止。この国をつくっている、この国に暮らす人であっても、参加できないことがある。参加はできないが、一緒に暮らしている。子どもや外国人がこの国の政治に口を出したらダメだ、それは正しい意見なのかもしれない。子どもや外国籍の人たちと日々を暮らしている、それは当たり前のことだ。
 店には誰だってやってくる。おとなもこどもも。遠くの人も近くの人も。マスクをしてる人もしてない人も。誰でも入れるように、戸を開けっ放しにしている。寒くて仕方ない。

 二十五日、北野の天神さんにいく。人混みの中で招き猫と目が合った。手を伸ばしてみるとそばで立ち話をしていたおっちゃんが「これも一緒にしとくわ」という。手渡されたのは茶色いトラネコの置き物だった。招き猫とは雰囲気もサイズも全く違う。強引すぎるセット販売。文脈もなにもない。「おきもんやこれはな、置いとくんや。家に」とよくわからないセールストークが続く。包んでもらえますか、というとおっちゃんはゴソゴソと新聞紙を丸め、招き猫とトラネコは三倍くらいの大きさのモコモコしたかたまりになった。「これで割れへんからな」とビニール袋を受け取り雑踏を歩き出すと袋の中で二匹のネコがぶつかりかちゃかちゃと鳴った。割れるやろこれ。期待を裏切らないダメさがうれしい。

 招き猫は磨いて消毒液のボトルの横に置いた。引き戸の上、誰も気が付かないところには友人が送ってくれたステッカーを貼った。「VOTE!」と書かれている。誰かに見てほしいわけではない。何かを言いたいわけでもない。ささやかに、毎日、当たり前にそこにあって欲しい。

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。