電話が鳴っている日記

保育園へ行く途中、道端にお地蔵さんがいる。ほこらついたの立派なやつ。時間がない時に限って三歳児は「うーとーとーするー」と言う。「まんまんちゃんあん、な」と軽く訂正しながら手を合わせる小さい背中を見ている。沖縄の言葉と京都の言葉が交錯したわけのわからない祈り。満足げに「した」と言って歩き出す三歳児。

出版社に電話。最近はつながるようになってきた。数ヶ月前は自動音声で「感染拡大防止のため…」とか言われファックス番号を聞かされるだけの版元が相当あった。うちにはファックスがない。電話がダメなのはわかる。命、大事。でもだからと言ってファックスで、ってなんなんだ。いや別にいいけど。いいけどなんなのよ。この納得のいかない感じどうしたら。感情を抑えてお問い合わせフォームにメールをしてみたこともある。三日ほど経ってから戻ってきた返信には「ご注文はファックスでお願いいたします」と書かれていた。ファックス信仰。この業界だけなんだろうか? それともこの国の?

定休日。昔働いていた本屋が人手不足だと言うのでしばらくバイトをすることになった。レジに立つ。何も考えなくていいのでとても気楽だ。黙々と返品を作る。知ってるお客さんがきたらだらだら話す。レジの電話がなる。出てみるとおばあさんだった。何を言ってるのか釈然としない。どうやらここを古本屋だと思って電話してきたらしい。で、本の買取をしてくれないか、と言うことらしい。たぶん。ここは新刊書店なのでそういうことはやってないんですけどね、ぼく行きますよ、と言ってみる。今度は相手が混乱している。

約束した日、待ち合わせ時間に少し遅れて教えられた住所についた。でかい家。通された九畳の間には亡くなったご主人の蔵書がいっぱいに詰まっていた。古い雑誌を見せてもらう。「これが私の生まれた家です」と表紙を指差すおばあさん。鉾町生まれのお嬢さん。下鴨のお屋敷に嫁いで、主人は一高を飛び級で出て大学に勤めてね、今でも月命日にはお寺さんまでお墓参りに行ってます、と言う。ここにある本たちを少しずつ売っていけば古本屋が数ヶ月は生きていけるんじゃないか、と思う。

満月の日曜日、LINEのテレビ電話が始まった。画面の向こうには大きな仏壇。マスクをした男たちがウチカビを燃やし始める。バケツのような器に次々と投入されるお供えの花や線香。最後にゾロゾロと外に出てウークイの儀式が終わった。スマホに向かって手を合わせるのはなんだか変なのでそこまではしないが、遠い島の先祖のことを少し想像してみる。京都にいながら沖縄の旧盆に参加できるようになったのは技術の進化だと思う。でもそれで満足するようになったら人間としてはかなり退化しているのではないかと思う。

技術が進化すればするほど身体は退化している。スマホを覗き込みながらたどり着いた場所には二回目以降もスマホを頼りにしないと絶対に行けない。なんとなくの勘でたどり着けた場所には次からは何も見なくてもいける。

うーとーとーには続きがあるのではないか、と勝手に思っている。うーとーとーうーとーとー海砂利水魚の水行末雲来末風来末…みたいな。あるいは、いーやーやこーやーやーせーんせいにーゆーたーろーとも似ている。あれは歌なのか。そんなことを考えながら隣の町内の地蔵盆に紛れ込んだ息子を見ている。炎天下に響く長い長いお経に頭がぼんやりしてくる。これは歌なのか。なーむーあみだーぶーつーの合唱。いや合掌。すぐに飽きると思っていた子は最後まで真剣な顔をして提灯の下に座っていて、ご褒美のジュースをもらって走ってきた。お坊さんの乗ったタクシーを見送りながら「今日は特別長かったんちゃうか」「全部盛りやったな」とおじさんたちが話す。そのセリフ、毎年聞いてる気がします。

四条通には録音されたコンチキチンが響き、甲子園では事前に収録された応援歌が無人のアルプスに流れる夏。意識が遠くなりそうな蒸し暑さも、サンゴの海を渡ってくる海風も、遠くの友人に送りあうことはできなさそうだ。まだ、今のところは。

 

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです。