入れときましょか

 保育園に子どもを送っていった帰り道、パン屋に寄ると厨房で親父が怒られていた。「あんたそんなしてなんもせんと座ってるだけなんやったら植木に水でもやってよ!」と早口で鋭い声。「ああ、忘れてた。へへへ」と言いながら奥から親父が出てくる。鋭い声の主はこちらを向き「袋はお持ちですか」と柔らかい声で聞く。リュックから出てきた汚い布袋を「拝借いたします」と手に取りあんパンとメロンパンとカレーパンを入れる。拝借されるほどいいものではないぞ、と思いながら店を出ると親父が植木に水をやっていた。

 「袋いりません」と言われることが増えた。というかほとんどの人が裸のまま本を持って帰る。ありがとうございます。でもリュックにギュッと入る雑誌は窮屈そう。大きすぎるエコバックに入れられた文庫本3冊はなんだか居心地が悪そうだし、自転車のカゴにそのまま入れられたマンガは今ごろどこか道端におとされているんじゃないか。汚い布袋から出てくるパンは汚い布袋から出てきたパンの味がする。ただいれればいいのか、持って帰れたらいいのか。包まれている安心感が失われた世界。それがいいとか悪いとかはわからない。みんな工夫して生きている。

 「本、引き取ってくれへんかな」とおじさんがやってきた。「前にタクシーでここ通ってね。どこに頼んでもいいんやけどまあわかるとこに聞いてみよかなと思って」と言っておじさんは帰っていった。引き取りの数日前、おじさんから電話。「あのね、ゴミ屋敷なんですわ。びっくりせんといて」それだけ行って電話は切れた。ぼくの中で何かがしぼみ、べつの何かが高まる。家につくと、聞いた通りの景色だった。門をくぐった瞬間に何かが靴底で音を立てる。「ここにこんだけと、あと二階と、一階にもちょっとある」というおじさんの説明を聞きながら玄関のドアに挟まっていた古紙回収業者のチラシをそっと抜き取ってポケットに入れておく。二階の廊下は雪が降り積もった日の朝のよう。点々と続く自分の足跡。その先にある黒い本たち。白くなるかもしれない本と、白くなるかもしれないけれどその手間をかけていいのかわからない本たちと、もう黒いままであろう本たち。箱に入れたり、紐でしばったり、ビニール袋にほりこんだり。「うまいことするなあ」とおじさんがつぶやいた。

 さこうさんがよいしょと木箱を持ち上げる。一個二個三個。六個目でバキと軽快な音を立てて潰れた。さらさらと本が流れ出す。あああ、としかいえないこういう時。木箱は便利。横にして積めば本棚にもなるし頑丈やし。ただ運ぶには心許ない。潰れたらもう何もいえない。ダンボールはすごい発明ですね。紙で本が運べるなんて誰が想像しただろう。ただ、書籍の流通で使われてるダンボールは本当に薄っぺらい。お金かけてられないんです、と誰かが言っていた気がするが本当だろうか。もっとも頑丈なのは八百屋に行けばある。バナナの箱。硬いしでかい。海を越えてきたという貫禄を感じる。ただ、でかすぎて本をいっぱいに詰め込むと大変。あとなぜか底に穴が開いていることが多い。リンゴの箱は硬くて頑丈、ほどよい大きさ。みかん箱は少し小ぶりだけど重くなりすぎないのでよい。欠点はどちらもでかいホッチキスで封されていること。外すのが面倒でたたもうという気持ちがなくなる。保管しておくのに場所をとる。折りたたまないとダンボールの機能の8割を損している気持ちになりませんか。こないだ「ファミチキのダンボールは文庫本を入れるのにちょうどよい」という知識を得たのだがどこに行けばファミチキのダンボールが手に入るのかわからない。10個くらい買えばもらえるのだろうか。

 最近、出版社から直送されてくる荷物が再利用のダンボールでやってくることが増えた気がする。コピー用紙とかなんかのロゴが入っている。以前は新品だったりその会社のロゴが入ってたりしてたんやけどなあ。気のせいでしょうか。別に再利用でも全く構わないしその方が面白いんですけどね。

 送られてくるといえば、たまにポストに入っている不在票。ゆうパックとヤマトは安定感ある。佐川のはお?ってなるし、福山通運とエコ配はドキドキするね。不在票の佇まいの話です。配達の方はみなさんもれなく親切です。いつもありがとうございます。

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです