ここ本屋さんできた

 「ここ本屋さんできた」とおもての通りから女の子のうれしそうな声がする。「そやなあ」と言いながら通り過ぎていく親娘。ああ、入ってきたらいいのに、と思う。絵本もあるよ。マンガもあるよ。おしりたんていも置いてるよ。でも、彼女らにとってここは「本屋さんできた」でしかない。いつか「本屋さん」になるかもしれないし、「知り合いのおじさんの店」になるかもしれない。ならないかもしれない。

 この建物には3年前から住んでいる。引っ越してきて1ヶ月後に町内会の役員になっていた。どういう経緯でそうなったのかは知らない。でもおかげで町内の人たちの顔はだいたい覚えた。ゴミのネットは誰それが出してくれているとか、市民新聞を配ってくれてるのは◯◯さんだとか。隣の大きなマンションは町内会に入っていない。顔のわかる人もいた。わからない人の方が多かった。すれ違っても目があうことは少なかった。そもそも、朝から仕事にいって夜帰ってくるだけの生活では人とすれ違うことがなかった。

 子どもができて、近所の人たちとの付き合い方がかわった。といっても「いやー、おおきくなったねえ」とか「かわいいねえ」とかいってもらうだけなのだけど。子どもがいなくても「今日はどうしてはるの?」とか「もう保育園なんやねえ」とか、挨拶以外のなにかしらの会話が発生する。共通の話題。

 本屋を開いてから、その関係がさらに広がった。となりの家の人が商工会のあつまりに誘ってくれる。前の町内会長が無料配布しているタウンガイドを持ってきてくれる。向かいのおじいちゃんは瀬戸大橋の設計をした物理学者だったことを知る。あの人、そんな仕事してたんや。マンションに住む姉妹が「これあげる」と大きなおもちゃを持ってきてくれたこともあった。お礼にピーナツをふた袋あげる。向こうの通りのてっちゃんが三輪車をくれる。オレンジ色の家族親戚で20年のりまわしたかっこいいやつ。お礼にピーナツをあげる。マンションの清掃の方がうちの前まで掃いておいてくれる。お礼にピーナツを…。

店を介して暮らしが深まっていく。「近所」の範囲が広がっていく。となりの町内も近所。向こうの通りも近所。自転車で5分くらいならまあ近所。住んでいるだけでは見えなかった景色。

 毎週のように顔を出してくれる「近所」の人も現れた。突然「沖縄のな、石鹸ってしらない?30年位前にお土産でもろたんが忘れられへんのよ」とかいう。おかげでいまでは店の一部が石鹸屋になった。こちらも負けじと「倉庫をさがしてるんですよねえ古本の」とかいってみる。「ああそしたらまいこちゃんにきいてみよか!」との返事。あんまり期待していなかったが翌週には物件を3つもってやってきた。「ここはな、まいこちゃんの友達が前にすんでたとこ、ほんでここは、倉庫に使ったはったんやけど最近おじいさん亡くならはったんやって。大家さんはトミーってよばれてるねん。貸してくれるかはわからへん。で、こっちは修理せなあかん雨漏りするし」とか言ってる。全部歩いて行ける範囲。住んでるだけでは絶対に出会わなかった人。

豊かやなあ。

 それでも「ここ本屋さんできた」でしかない人たちもいる。重なることのない暮らしもある。どうにかしたら関われるのかもしれない。推理小説を置いてみるとか、もっと早朝からあけてみるとか。関わらなくてもいいのかもしれない。本は読まないんですとか、ネットでしか買わないんですとか。そういう人もいる。それでいい。でももしかしたら、いつか急に関わることになるのかもしれない。そのときにはしっかり受け止めたいなと思う。風を待つヨットのように帆を広げておくこと。

 小学生くらいの男の子がおそるおそる入ってきた。「クルマの本ってどこに置いてるんですか」ときく。「いまは絵本くらいしかないなあ。もっと詳しいのがいいやんな?」「そうですか…」うつむく子ども。「どんなん探してる?どんなん読んでるの?」聞いてみるがうつむいた子の耳にはもうなにも入っていかなかった。男の子の勇気がしぼんでいくのがみえた。ああ、ごめんなあ。つぎ来た時はちゃんとしとくしな。またきて。

  

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです