言い訳

 自分の店を準備していた数ヶ月前、「コンセプト」という言葉がほんとうに苦手だということに気づいた。「どういうコンセプトのお店なんですか?」とか聞かれても答えられない。くる人が決めたらいいやん、とか思ってしまう。それではいけないとはわかっている。人はコンセプトのある店に行きたくなるのだろうということはよくわかっているつもりだ。堂々と自分のやりたい店を語る人もみてきた。そういう人はかっこいい。でもダメなんだなぜか。

 苦し紛れに口をついてでた言い訳がある。「長谷川書店みたいな店に何十年後かになってたらいいなって思いますねえ」。いますぐできるとは思っていない。何十年後かに。それで伝わるんだろうか。伝わらない気がする。

 阪急電車の京都線、水無瀬駅。各駅停車しかとまらない小さな駅。ホームから改札に降りる階段の途中からもう長谷川書店水無瀬駅前店が視界に入ってくる。改札から徒歩数秒。幼年誌が積まれたマガジンラックとアニメ絵本の回転塔。ガラスの自動ドア。ごく普通の本屋の景色。

 店のあり方と長谷川さんのことについては、石橋毅史さんの『本屋な日々 青春篇』にほとんどのことが書いてある。それ以上のことは書ける気がしないのでぜひご一読ください。

 初めて行った日からなにも変わっていない佇まい。それは間違いないのだが初めて行った日のことはどうしても思い出せない。いつか行かなければいけない店だった。当時、僕は二駅となりの町で書店員をしていた。長谷川書店の話を聞くことは一回や二回ではなかったはず。いろんなひとがいろんなことを言う。いつかかならず行かなければいけない店になっていた。

 「あー。先にやられたなあ」みたいなことを言われた気がする。それが1回目の訪問だったかどうかはわからない。でも初対面でそういうことを言う人だ。店長とともに店をまわしている長谷川さん。だいたいボーダーのシャツ。自分もそっちに行かなあかんと思ってた、というようなことを話したのだとおもう。お互いに意識し合っていた。ああそうか、と思った。

 なんどか通ううちに不思議なことがおこった。本棚をはずしてピアノを入れるという。なにをいっているのだろうか。それは「こうすれば店が良くなる」とかいうことでも、「こうしたい」という長谷川さんの内から出てきたものではない、ということだけはわかった。ピアノを手放さざるを得なくなった人がいて、それを引き受けようとする人がいて、その様々をすべて長谷川さんが引き受けようとしていた。なぜそんなことを。わからない。作業は徹夜になる。でもやらなければいけないと考えているらしかった。その後も同じようなことがなんども起こった。町の人が店をつくっている。あきらかに僕の思っていた店と客の関係ではない。参加している。参加させられている。

 気づくと自分も巻き込まれていた。店内で読書会を開くことになっていたり、クモの専門書を一生懸命読むことになっていたり、徹夜で本棚を運び込んだり、チョコレートをもらったり。そのすべてが「巻き込まれている」としか言いようがない。かといって長谷川さんが何かを主体的に動かしているのではない。その後ろにもっと大きなものがあって、気づくとみんなが渦の中にいる。

 「店」なのだろうか。「人」なのかもしれないな、と思う。誰がやっても長谷川書店になるわけではない。明日からここ任せたよ、と言われるととても困る。ちょっとうれしいけど。では長谷川さんが待賢ブックセンターの店番をしていたらどうだろうか。それもちょっと違う気がする。ああはならない。では梅田の紀伊國屋にいたら?それも違う。だいぶ違う。定有堂にいたらどうだろう。それはちょっとありなのかもしれない、といまふと思った。

 何十年後かに長谷川書店のようになっていたらいいな、というのはやっぱり言い訳だ。今すぐできることもある。何十年たっても近づけない気もする。

 

※この妙な文章は定有堂書店さんのミニコミ「音信不通」に掲載していただいたものです